岐阜別院の歴史


岐阜別院の歴史

沿革

16世紀後半
本願寺第11代顕如門主の美濃地方ご巡教の折、この地の一柳直高が信徒となりその没後、墳墓の側に一寺が建立されたことにはじまる。
慶長8年
(1603年)
岐阜坊舎創立の機運高まり、本願寺第12代准如門主のご認許によって本願寺坊舎創立なる。
※当時は坊舎と云い、明治に別院と改められる。

本願寺第12代
准如上人(じゅんにょしょうにん)

顕如上人の第3男。後に大谷派本願寺を別立された長兄・教如上人に代わって17歳でご継職。地方別院の体制を固め、近世本願寺の基盤を築かれた。
学問に造詣深く、「文類聚鈔」などをご刊行。54歳で示寂された。

本願寺第12代 准如上人
正保2年
(1645年)
南北11間半、東西11間の本堂が再建、当地方真宗門徒の中心道場として護持される。
正徳3年
(1713年)
諸堂焼失するも7年後に本堂再興、爾来、60余年を要して境内建物を充実される。
明治24年10月28日
(1891年)
濃尾大地震に被災、鐘楼・経蔵・茶所他全壊。本堂・御殿・対面所他半壊。本堂全壊寺院98ヵ寺。
昭和13年
(1938年)
戦火の拡大に伴い、戦没者の遺骨を丁重に弔う納骨所として忠魂堂(現:八角堂)建立される。
昭和20年7月9日
(1945年)
第2次世界大戦岐阜空襲により、本門・鐘楼・経蔵を残し、本堂・書院・対面所他全焼失する。
昭和26年
(1951年) 右写真(再建の様子)参照
昭和20年10月より復興計画にとりかかり、岐阜県下の寺院・門信徒・岐阜市民が一体となって総力を結集、岐阜市復興のシンボルとして現在の梁間10間、桁行18間の尊容を誇る本堂が再建となる。
昭和34年
(1959年)
本願寺総会所を譲り受け対面所として移築、香光殿と命名。
※後の事業により現在は遺構のみ残す。
昭和41年
(1966年)
親鸞聖人700回大遠忌法要記念事業として本願寺会館が竣工。岐阜別院寺務所、岐阜教区教務所として活用される。
※後の事業により現在は撤去。
昭和50年
(1975年)
岐阜市近郊芥見に芥見分院を建立。岐阜県下における伝道拠点として着実な充実進展をみる。
平成28年
(2016年) 右写真(法要の様子)参照
親鸞聖人750回大遠忌法要記念事業として本堂修復・香光殿新築・境内地整備を完工。
同年5月28.29日、本願寺第25代専如門主により「岐阜教区・岐阜別院親鸞聖人750回大遠忌法要並びに岐阜別院本堂修復香光殿新築落成慶讃法要」御親修なる。

当時の本堂

  • 本堂

再建の様子

  • 再建1
  • 再建2
  • 再建3
  • 再建4
  • 再建5
  • 再建6

法要の様子

  • 法要の様子1
  • 法要の様子2
  • 法要の様子3
  • 法要の様子4